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永井彩乃選手インタビュー「2022シーズンを振り返って」

新型コロナウイルスの影響で2022年に開催された「ラグビーワールドカップ2021ニュージーランド大会」に出場した女子日本代表。目標のベスト8入りは逃したものの、2022年5月にはオーストラリア(世界ランク5位)、8月にはアイルランド(世界ランク6位)から歴史的な勝利を挙げ、ニュージーランドとのテストマッチを経て世界の大舞台へと挑んだ 。

その日本代表の2022年を永井彩乃選手に振り返っていただきました。

―女子ラグビーにとって激動の年になりましたが、2022年を振り返って印象に残る出来事を三つ挙げていただけますか。―

永井
ひとつ目は初めてオーストラリアに勝てたことです。直前までメンバーに選ばれていたのですが、複数の選手にコロナの陽性反応が出て試合に出られなくなってしまったのです。私もその中のひとりで、試合は隔離されているメンバーとZoomで繋いで一緒に見ていました。
主要メンバーが急遽出られなくなってもオーストラリアに勝てたのですから、女子日本代表の自信になりました。これを最初にあげた理由は、その場にいることができなかった悔しさと勝てた喜びがあるからです。

―メンバーに選出され直前になっての変更ですから、なおさら印象深い出来事になっているのかもしれませんね。―

永井
あの時は直前でのことなので強く残っています。
二つ目は、ホームでアイルランドに勝ったことです。2021年のヨーロッパ遠征のときに最後の最後、取り切れなくて僅差で負けているんです。その悔しさが残っている中で、日本の女子ラグビー史上初めてアイルランドに勝てたわけですから、言葉に言い表せないくらい嬉しかったです。
第1戦がボロボロだったのでなおさらですよね。その1戦目と2戦目の間にあったことは、レスリー・マッケンジー ヘッドコーチから、「この試合は練習試合だと思ってくれてかまわない。勝敗は気にしない」と言われたことを受け、選手たちは、「相手フォーカスではなく自分たちにフォーカスしていこう」という意見でまとまりました。

それまでは相手はこう仕掛けてくるから、私たちはこう対応しようという考え方をしていたのです。セットプレーとか、2次以降のプレーとか、グループごとに相手を分析して発表する会があるのですが、それは相手フォーカスなのです。
2戦目になれば、アイルランドが何をしてくるかがわかっているので、それを踏まえた上で、今度は自分たちが何をしたいのか、するべきなのかと自分たちにフォーカスしていったので、それが良い結果に繋がったのだと思います。

―とても印象に残っているシーンがあるのですが、ラインアウトから永井さんがラインに入って、ディフェンスを突破してから外へ展開してトライを奪いました。あのシーンに象徴されるように自分たちが準備してきたことをしっかりやり切ろうということですね。―

永井
あのプレーはまさに準備していたものです。自分たちのプレーに集中しよう。出し切ろう。それがうまくはまった試合でした。

三つ目はワールドカップに出場できたことです。テストマッチとは違う厳かな雰囲気といいますか、それぞれの国がそれぞれの誇りを胸にあの場に来ていることを肌で感じました。それとホームとアウェイの差を痛感しました。
アイルランド戦は日本での戦いですから、観客の「がんばれ」という応援が全部力になったように思うのですがワールドカップでは相手側のサポーターの数が多く、これでは「呑まれる」と感じました。それが普段は絶対にやらないような雑なプレーになったり、緊張感で震えてしまったり。
準備してきたプレーも、ここで使いたいというその直前でミスが起きてしまい上手く機能しませんでした。個々の選手は負けていないのに、チームとしてここで取り切る、ここで止め切るという共通認識ができなくて、ゲームの経験値が出たかなと感じています。
海外のチームはベテランの選手たちが出場しているので、戦いながらも勉強になりましたし、これがワールドカップなんだという世界のレベルを感じました。
ワールドカップで勝てなかった悔しさは大きいです。ですが、その中でも自分が通用したところや自分の役割を多少なりとも遂行できたので、勝てなかった悔しさ反面、やれたかなという思いは持っています。

―日本代表の中で永井さんの役割とは?-

永井
「前に出てゲインラインを切る」ことです。これが一番の役割かなと思っています。
ワールドカップのアメリカ戦でリザーブから試合に入ったときに「これでゲインできると思った」と言ってくれた選手がいました。信頼してもらっているんだなと感じましたし、そこが私の持ち味なんだと思いました。

―いま挙げていただいた三つの中で一番印象に残っていることを挙げるとすれば?ー

永井
二つ目に挙げたアイルランド戦とその前に行われた南アフリカ戦の間にあったことなのですが、「私は南アフリカ戦では2試合ともリザーブなのですが、どうしてスタメンに入れないのですか」と自分からレスリーHCに話す場を持ち掛けることができたことです。
それまでの私は何事も受け身で、言われたポジションを言われたようにこなしているだけでした。リザーブなら仕方がないと思っていたのです。
でも、あのときは「どうして入れないのだろう」という思いが強くなって、直接レスリーHCに確認しようと行動することできたのです。自分の本当の気持ちに気がついたのですね。
どうして?という悔しさと直談判できたことが、ラグビー選手として、人として、まだまだ自分が成長できると思えた出来事でした。

―レスリーHCの回答は?ー

永井
一言でいうと遠慮があるということです。試合中は爆発的なのに練習中にはそれが感じられない。もっともっと私を見てというアピールを練習中からしてほしいと言われました。あなたには持ち味があるのに、アピールするものを持っているに、それをしていない。周りの選手たちもそう感じているよと言われました。
そこで練習中、メニューが始まったときに一番に入るとか、リスリーHCがデモンストレーションをするときには真っ先に行くとか、そういう細かいところから取り組んでみたのです。何度もそういうことを繰り返すうちに少しずつ積極性が生まれてきたように思います。
あのとき積極的に話す機会を作らなければリザーブのままだったろうし、私のワールドカップ出場もなかったかもしれません。私の中の大きな出来事でした。

―ワールドカップイヤーとなった激動の2022年を振り返っていただきました。ここからはラグビーとの出会いからお聞きしてまいりましょう。―

永井
もともと父がラグビーをやっていたこともあって、中学一年生のときに父の友人から「女子ラグビー・関西ユース強化選手」というセレクションがあるから、それに参加してみないか?と誘われたことがきっかけです。
セレクションに合格したので地元の鯉城ジュニアラグビースクールで競技を始めることになって、中学三年では男子と一緒に「全国ジュニアラグビーフットボール大会」の広島選抜として花園に出場しました。

―男子の中に入ってプレーを?-

永井
そうなんですよ(笑)。
私の代までは女子も男子と一緒に花園に出てよかったのです。私の次の代からは女子だけの大会になったのですが、私は男子の中にひとりだけ女子がいるみたいな感じでした。ポジションはウイングです。

高校では女子の中でやりたいと思って石見智翠館高校に進学しました。
当時、ユースにいた子たちがごっそり石見智翠館に入ったので気心の知れた仲間と3年間過ごすことができました。その後は父が日体大ということもあったので、進学は日体大以外には考えられませんでした。

筆者注
石見智翠館高校では全国高校選抜女子セブンズに優勝。太陽生命ウィメンズセブンズシリーズにも出場。高校三年時にはセブンズのU20日本代表として、U20のアジア大会にも出場しました。

―卒業後、YOKOHAMA TKMを選んだ理由をお聞かせください。-

永井
大学時代に何度か試合で当たったことがあって、チームの雰囲気が自分に合っていると思ったんです。日体大に残るという選択肢もあったのですが、雰囲気に惹かれたYOKOHAMA TKMに入りました。
もともと医療関係に興味があり、医療事務にも興味があったからです。それにYOKOHAMA TKMは緩くなく、きつ過ぎることもなく、そのうえ、仕事とラグビーを両立させる環境が整っていることが大きな魅力でした。

―先生になろうとは思わなかったのですかー

永井
教職は中・高の体育をとっていますし、保健室の先生の免許も持っているので最初は先生になろうと思っていたのですが、親が教師ということもあって、いろいろな状況を見ていると教師は難しいかなと思うようになったのです。それだけに面白いとは思います。あばれる生徒をタックルで止める保健室の先生とかもありかなと思います。

―競技人生を振り返って、現在の日本代表に繋がっていくようなターニングポイントはありますか?

永井
ターニングポイントはたくさんあるのですが、中でもジャパンを目指すようになるくらいインパクトのあったものは、中学三年生の花園(全国ジュニアラグビーフットボール大会)ですね。広島選抜に選出されたときに、男子の嫉妬といいますか、最後のミーテングで男子から「なんでおまえがメンバーに入っているんだ」って言われたことです。そのときは言われるままだったのですが、悔しくて、悔しくて、翌日からは「絶対にあいつらを見返してやる」「絶対に日本代表になってやる」と思うようになったのです。ただ、動機が不純ですから(笑)、この話はあまり人に言ったことはありません。
そんな悔しさを持ちつつ石見智翠館高校に進学しました。そこからユースの中でアピールして、セブンズの日本代表になってやると思っていたのですが、ユースの上のアカデミーに選ばれるようになると「やっぱりラグビーは楽しいな」と思えるようになったのです。そこからは純粋にセブンズの日本代表になりたいという思いが大きくなっていきました。

―最初はセブンズで、いつ頃から15人制の日本代表を目指すようになったのですか?-

永井
それは日体大に入学して15人制の日本代表合宿にも呼ばれるようになったことがきっかけで、セブンズよりも15人制の方が自分には合っているし、面白いと思うようになったからです。
セブンズと15人制とどちらにも呼ばれていた時期があるのですが、ちょうどレスリーHCの体制になったタイミングで呼ばれるようになりましたので15人制を目指すことにしました。

―日本代表初選出の思い出をお聞かせください。-

永井
日本代表の初選出は大学生のときで、2019年のオーストラリア戦でした。リザーブで出させてもらったのですが緊張してしまい、あのときのことはあまり憶えていないんです。
オーストラリアの選手が持っていたボールを腕力で奪い取ったというシーンと、スクラムを押したのに、私がグラウンディングできなくてトライを逃してしまったことくらいです。あの試合はボロ負けしたし、相手は大きくて痛かったし、苦いデビュー戦になりました。
感動したのは試合前の国歌斉唱です。君が代が流れたときは夢心地になりました。試合のメンバー発表のあとに君が代の意味をみんなで考える時間があったのですが、そこで君が代の意味を知っていたのでなおさら緊張したといいますか、この緊張感が日本代表なんだと思いました。

―最後の質問になります。これからの夢をおしえてください。―

永井
引退後のキャリアになるのですが、私の出身の広島県はラグビーがあまり盛んではありません。
尾道高校が強くて有名ではあるのですが。もっと盛んになって競技する人を増やしたいと思っています。特に女子は小学生でやめてしまうケースが多く、それを中学、高校、大学、社会人まで続けてほしいと思っています。男子も女子も強化したいし、普及をしていきたいです。
私が地元でやっていたころとはずいぶん環境が変わって、女子部ができたり、女子だけのクラブチームもできて前進したなと感じています。地元に戻る機会があればそういったチームのお手伝いができたらと思っています。試合を組んだり、選手の成長に繋がることをしたいと思います。
私がここまで来るまでには、いろいろな方にお世話になっているので、そのご縁を大切に繋いでいきたいと思っています。

欲を言えば太陽生命WSSを中国や四国のエリアで開催したいと思っています。今までは東日本で開催されることが多く、中国地方や九州から来ている選手たちの親はなかなか見に来る機会がありません。見に行きたいけど遠いんです。西日本にもチームがあるのですから中国四国エリアでも開催してほしいと思っています。

―YOKOHAMA TKMの魅力をおしえてください。―

永井
私は今年で4年目になりますが、職場の方たちは理解があり、全面的に応援してくれています。私が長期で遠征に行くときも気持ちよく送り出してくださいます。ラグビーと仕事を両立する環境が整っているところがYOKOHAMA TKMの魅力です。あとはチームメイトの仲の良さだと思います。とてもいいチームだと思いますし、感謝しています。

―永井彩乃選手でした。お時間をいただきありがとうございました。

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